「プラハの春、ミュンヘンの夏、そして・・・」
      オリンピック私見
日野暁子 (S29 文)
当時西独に住んでいたが、 夏休みでチェコのプラハへ行くつもりだった。 1968年8月、ニュ−ルンベルグのやや北を東に向けて車を走らせた。いつの間にかアウトバ−ンを外れ、道はどんどん細くなり、雑草が生い茂る中。田舎の国境を越せば簡単に行けると考えていた。しかし、目の前に見えてきたものは蟻の行列のように並んだ車の列。その尻尾に並ぶのにも苦労した時、これはとんでもないことになったと悟った。茫々とした草の道を車の列は一向に進まず、結局6時間待ち。税官吏の恐ろしい顔が休暇気分を吹っ飛ばした。車体のしたに鏡を入れて調べるのは当然、荷物は全部開け、ほうほうの態で国境を越えた時、外は暗闇、そのうえ土砂降りの雨。標識もない細い土の道をヨタヨタ車を走らせる。道沿いの民衆の家に全く明かりがついていない。本来なら豊かなホップ畑のボヘミアであるはずだったのが死にものぐるいの3時間。あれがプラハの灯だと思った途端、もう明日にも帰ろうと考え始めていた。今は百塔の黄金の街としてライトアップしたカレル橋など優雅なたたずまいを見ることが出来るが、活気も人の笑顔も品物も見ることのない陰気なところであった。
今は世界遺産のカレル橋とプラハ城 ミュンヘン五輪会場には悪夢の影も無し

彼の背番号は“68”。 1968年8月、プラハのヴァツラフ広場。チェコの民主化を阻止すべく突然侵攻してきたソ連の戦車に立ち向かった学生、若者、一般人から多くの犠牲者がでた。悲劇の歴史、“プラハの春”。その中にヤ−ガ−の祖父もいた。時代は移り、孫はアイスホッケ−の選手としてアメリカで活躍している。オリンピックでチェコチ−ムの一員としてチ−ムを引っ張った。長野ではロシアを降ろし金メダルを取りチェコの英雄としてヴァツラフ広場に凱旋した。プラハの春から30年経っていた。2006年トリノのオリンピックでも活躍のヤ−ガ−選手は34歳になっていた。彼は言う。祖父のことは忘れずに背中にしまっている。しかし、オリンピックで相手チ−ムがどんな国でもそれとこれとは別だ。
1998年、長野オリンピックのアイスホッケ−は大方の下馬評は、ロシア、アメリカ、カナダのいずれかであった。準決勝にチェコが残っていたのは予想外であった。そのチェコに髪をたてがみのように伸ばし目覚ましい活躍をした若者がいた。 ヤロミ−ル・ヤ−ガ−。
1972年9月ミュンヘンオリンピックが始まった。 競技が始まり日本男子バレ−ボ−ルはドイツと対戦していた。丁度そのとき、イスラエル選手の部屋でパレスチナのテロリストによってひとりが殺され9人が閉じこめられていた。“黒い9月”の始まりであった。オリンピック初の生中継放映は全世界が知ることになった。ドイツ側政府から警察に至るまで、この深刻な事件を鎮めるどころか総て後手に回り全く無能であった。結果としてイスラエル選手は殺され、数珠繋ぎで連行される気の毒な人質をテレビは全世界に映し出していた。ミュンヘンオリンピックは実に後味の悪いスポ−ツの祭典になってしまった。スピルバ−グが“ミュンヘン”を映画にしたが実にそつない映画と思う。偶然そこに居合わせただけの私にとって、あんなもんじゃなかったと腑に落ちないが。
国家、民族、宗教、貧富の軋轢は今も一向におさまっていない。フィギュアスケ−トの荒川選手の金メダルひとつでトリノオリンピックの帳尻が幸福色になった日本は本当にメデタイ平和な国と言えるのかも知れない。
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