雲の平
笠原 熙 (S31法)
雲の平は、永年心に抱き続けた憧れの山であった。そして今、妻と共に薬師沢を渡り、夢の仙境を辿り、更に名峰鷲羽岳を越えて双六小屋に思い出を刻むことができた。
下山の日がきた。ここから新穂高温泉までの道は、5年前太郎兵衛平から黒部五郎岳を越えてきたときに歩いているし、また、弓折岳手前からならば、昨年の平成7年7月笠ヵ岳を往復したときに通った道でもあり安心感がある。とはいうものの長丁場であり、気の緩みは禁物だ。しっかり歩こうと気を引き締めて5時24分、小屋を出た。
 
双六岳の左裾にちょっぴり姿を現している笠ヵ岳を眺めながら、色とりどりのテントの花の咲く双六池の脇を通り、弓折岳に続く稜線の道に取りついた。一息入れて振り返ると、双六小屋の左奥に鷲羽の姿が遠慮勝ちに覗いている。道は一旦左にまわりこんで鷲羽岳も見えなくなったが、更に高く登ると、今度は小さいながら均整のとれた美しい姿で私たちを見送ってくれた。
夏雲沸く槍ヶ岳を見ながら三俣蓮華の雪渓を渡る
稜線に出た。するといきなり、眼前に大パノラマが展開した。槍穂高連峰だ。グレイのシルエットが朝靄の中から、荘厳に、神秘の気を漂わせて浮かび上がっている。穂高の山裾に薄く絡む白絹は、南に流れて次第に濃密さを増してつややかな雲海となり、近くは焼岳が、そして遠くには乗鞍岳が幻のように浮く。峰々は、無言に、無限の想いを語りかける。

 人よ、驕るなかれ。
 人よ、美しきもの、真なるものの前に謙虚になれ。宇宙の万物の前に ( こうべ ) を垂れよ。
 人よ、自然の一分子に立ち帰れ。
 
私は孤高に天を指す槍を祈るような気持で仰ぎ見る。
左から シナノキンバイ、チングルマ、キバナシャクナゲ、ミヤマキンバイ、タカネツメクサ
妻と私は、神々に見守られながら、神の造り賜うた美しき花園を歩んだ。クルマユリ、ハクサンイチゲ、エゾシオガマ、タカネトリカブト、そしてクロユリ……。私は、私の心が澄んでくるのを感じた。誰もが心美しく、優しくなるようであった。
  「撮ってあげましょうか。」
見知らぬ男性が声をかけてくれた。私は妻と並んでハクサンイチゲの咲き乱れる前に立ってカメラを見つめた。
弓折岳への道と別れて鏡平に向かう分岐点に来た。これからは下り一方だ。まだ道は遠いが、1時過ぎには新穂高温泉に着くだろう。本当に素晴らしい山行だった。二人共、元気に無事に歩けた。感謝の気持を胸に、神の国に別れを告げた。

(平成11年 笠原熙著 「とことこ道草山ある記」より)
雲の平の写真スライドショー
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