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杉並の風

 わがホッケー人生
                                            吉田 正二朗(S30経)
   
テニスコートでボール拾いばかりさせられ退屈し切っていた中学3年の頃、体育館スタンド前で柄の先が曲がっている見た事もない道具でボールをころがしている旧制高校生達に気が付き、ふと伯父の書斎隅に置いてあった同じ道具を思い出した。
 翌日伯父の承諾も得ず持ちだし早速旧制高校生に混じってその道具を使って遊んだのが長いホッケー人生の始まりだった。 初台の我が家は昭和20年4月の空襲で焼けだされ、父は三島工場へ、母と姉は山中湖へ、兄は海軍へと分散生活を余儀なくされた戦時中、私は成城学園へ通学していた関係で経堂の伯父宅のお世話になっていた昭和22年夏中学3年の時である。 
当時の旧制高校ホッケー部は解散していたが、女子は戦時中も体育時間にホッケーを続けていたおかげでスティックが有りそれを借りて男子部の復活を目指していた頃だったが、当時のスティックは極めてお粗末なものだっただけに私が持ち出したスティックがりっぱに見えたらしく皆で代わる代わる使って満足していた。  
 あの時から中学で1年、高校で3年、大学で4年そして名古屋クラブで2年の現役ホッケーを続けた後も、OB戦やレフェリーをしていた関係で東京オリンピックでは審判委員に選ばれブレザーコートを着て入場式行進に参加できたのが思い出深い。

モントリオールオリンピックも当時現地駐在員をしていた関係で緑の天然芝グラウンドのホッケーゲーム観戦を満喫出来たのは幸運だった。 
 忙しかった現職のサラリーマン生活を終えると早速成城の高校男子からコーチを頼まれたが、練習開始時間になっても遅刻する部員が多く、いささか頭に来ていた矢先、高校女子の部長先生から高校女子のホッケーを是非見て下さいと言われ、渡りに船と喜んで引き受けた。ところがコーチを引き受けた10日後に早くも白根で東日本高校大会があり、初戦で利根女子商業高校に22対0で大敗したのには参った。とにかく部員全員がホッケーを全く知らないのには驚いた。
 しかしその後、猛練習の甲斐あって2年後には6年ぶりに東京大会で優勝して全員涙を流して喜んでくれ、教え甲斐のある選手たちを持つ満足感を味わえた。決勝試合が終了するや私に飛びついて来た子は慶應大学でも大活躍してリーグのベスト11に何度も選ばれ名選手に育った。又優勝したそのチームから大学東西対抗戦の東チームの代表選手に3名も選ばれうれしくなり関西の大会に応援に行ったことが思い出される。
 高校女子を4回も優勝させたことでOB達から男子監督を頼まれ引き受けたが(今は男子の総監督)早々に4年間連続して試合中に大怪我人を出し救急車で4回も病院へ行った苦い経験はあったが、まもなくリーグ戦3部を8年ぶりに優勝して2部に昇格してからは、怪我人が出なくなったのは選手達の技術が上達した為だと思う。
 今は練習場の人工芝化を部員達と学校当局に懇願しており80歳迄(2年後)に実現をしてわがホッケー人生を締めくくりたいと念願している。
   




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