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杉並の風
      
コーラス と  私
 
 古屋 雄三(S30年 経)
 
 昭和21年、戦後の混乱のピークの時代だった。中学3年の吾々に物理担当のK先生が「皆でコーラスをやらないか?」と声をかけられた。一高~東大一本でバンカラな我が母校で、こんな呼びかけは極めて唐突で、皆キョトンとしたがK先生ひるまず「やれば楽しいぞ!」とグンと押してきた。その呼びかけに応えたのが十数名の仲間だった。狭い用品室を片付け、古い小さなオルガンが1台、それだけだった。
当時旧制中学は五年制で一~二年のボーイソプラノが高音部、声変わり中の三~五年生が低音部を受持った。曲目は小・中学唱歌やフォスターものなどで、練習を続けるうちに曲がりなりにも男声四部に成長した。
 
偶々昭和22年にA新聞社の関東学生合唱コンクールが復活し、翌年に堀口大学作詞・清水修作曲の《月光とピエロ》の中の〈秋のピエロ〉が男声合唱の課題曲になった。これがまた人生の哀歓を謳い上げた素晴らしいもので、皆惚れこんで歌った。この名曲が小生たちのコーラスの原点となった。その年に学校創立90周年記念祭が行われ、コーラス部は私立山脇女子学園との混声合唱で名曲「流浪の民」、「ハレルヤコーラス」を中心に発表会を催し高校生活の掉尾を飾った。   
 
 慶応に入ってから一番に飛び込んだのは勿論ワグネルであった。日吉の米軍兵舎を改造した校舎の傍らに新入会員が集められ、昼休みは当然のこと放課後もすべてコーラスで自分の時間が殆どない程、練習漬けであった。どんな曲をやったかは定かでないが、コーリューブンゲンを中心の練習に明け暮れした。当時母子家庭であった我が家は貧しく、アルバイトをせずには大学生活を維持することが難しかった。結局家庭教師先を複数持ち、放課後の時間はすべてこれに当てた。学業とアルバイトの両立が課題であった。一年初めての夏休みにはワグネルの夏の合宿があり、これが難問で遂にワグネルを退会せざるを得なかった。
  卒業後F銀行に就職したが、もはや戦後ではないという掛け声と共に高度成長期に突入した。終業後の合唱活動に飛び込む余裕は新入行員には全く与えられず、それっきりになってしまった。 
 平成19年春に高校の同期会で、K君から「三田会にコーラス部ができたので来ないか」と誘われ、直ちに飛び込んだのがヴィエントである。
それがまた素晴らしい指導者である谷口ひとみ先生の、楽しく爽やかで的確なご指導に一目ぼれし取りつかれ、本モノの合唱生活を楽しんでいる。うまく皆で歌えた時、先生が二の腕をさすりながら、ゾクゾクと嬉しそうな顔をされた時、こちらまでも涙が出るほど嬉しくなり、本当の合唱の喜びを感じている。
   
 しかし80歳を超えてからは声も出ず息も続かなくなり、もう終わりかなと
思うことも多く、ファルセットやカンニング・ブレスで皆に合わせている体たらくである。しかしヴィエント命名者の久津先輩も大御所として健在である。
よし負けないで頑張るぞ!という気概だけで続けているが、こんなに楽しい会がコーラス生活の最後の舞台とは本当に幸せ者だとつくづく感謝している今日この頃である。
                                                    第4回 演奏会
 
 




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