いつかは現地を訪ねたい。
この春、仕事から解放されて次の一歩を踏み出すのに、真っ先に行っておきたい南三陸だった。
普段は腰の重い夫も珍しく誘いに乗ってくれ、二人して参加させていただくことにした。
初日、くりこま高原駅からバスで「慶應の森」へと向かった。
道中、長島元常任理事より慶應の森が出来るまでの経緯についてのお話を伺った。
森の入口には、南三陸森林組合長の佐藤久一郎さんが笑顔で待っていて下さった。森の真ん中に新しく完成した山小屋とバイオトイレを見学した後、塾生たちが整備した山道を頂上目指して登った。 40年たって立派に成長した杉の木を、慶應の学舎の用材として使おうと計画しているとのお話を佐藤さんから伺った。自然だけでなく、人の心も循環して次の世代に還って行く…。皆で植樹した3本の桜の苗木は、来年には花が咲くでしょうとのこと。
バスで「さんさん商店街」へ。
モアイ像が山を背に、まちを見守るように立っていた。
昼食の豪華ウニ丼に大満足。
昼食後、「戸倉中学校」と「五十鈴神社」に向かう。高台にあるのに1階を津波に襲われた戸倉中学校の時計は、地震発生の3分後を指して止まっている。ここまで津波が来るとは…。20メートルの津波の恐ろしさを実感した。建物の中をのぞくと、教室の黒板に震災翌日の行事予定が書かれたままになっていた。続いて、小学生らが奇跡的に助かった五十鈴神社へ向かう。赤い鳥居をくぐり、急な階段を登ると小高くなった境内に出る。あの日、同じこの道を必死になって登った小学生や保育園の子どもたち。「よく頑張ったね!」と思わず声が出た。暖をとったのか、焚火の跡が残っていた。
初日の最後は、紆余曲折の末、震災遺構として保存されることになった「防災対策庁舎」を訪ねた。順繰りにお線香を手向けた。
「海を恨んではいない。自分たちは海で生活している。だから今でも海が好きだ。」と、バスの運転手さんの言葉が心に残った。
翌朝、日の出時刻4時09分。朝日が部屋に差し込んで、早々に目が覚めた。前日とは打って変わって、見渡す限りの青い空、雲ひとつない。眼下には、入港したばかりの大型漁船が二艘並んで接岸、魚の水揚げをしているようだ。作業の人たちが動き回り、上空を無数のカモメが飛び交う。船のてっぺんには大漁旗が翻っている。そこだけ見れば、きっと震災前と少しも変わらない活気あふれる光景。今は中心部が失われて、がらんどうのようになってしまった街全体も、この光景のように早く昔どおりの活気と賑わいを取り戻して欲しいと切に思った。
6時ごろ、防災無線から大音量のメロディーが流れた。「恋はみずいろ~♪空と海の色♪」元気が湧いてくる気がして一緒に口ずさんだ。
午前、語り部の菊田さんと被災地を巡った。「助かったか否かは、ほんの少しの違い。一日一日と災害の発生に近づいているのだという意識をいつも持っていて欲しい。」と、強く訴えておられた。
リアスアーク美術館では、館長さんの説明を聞きながら、被災物と当時の生々しい写真のひとつひとつに見入った。
最後の海の市では、気仙沼三田会会長の佐藤亮輔さんが出迎えて下さった。昼食の海鮮丼に舌鼓を打って、お土産をどっさり(?)買い込み、帰路に就く。東京駅に18時52分無事帰着、解散式。
見て、聞いて、感じて、語り継ごう、の私たちの旅。
南三陸の町々は、あちこちに深い傷跡を残しながらも、海は青く、山の空気はオゾンが一杯で清々しかった。私たちを迎えて下さった方々は温かく、復興に向けた心意気に溢れていた。
~ 山したたる南三陸せりの声 ~
綿密な計画のもと、楽しく有意義な応援ツアーを引率して下さった地域貢献グループの方々に感謝!!
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