私が日吉時代に「日仏学院」に通い始めた訳は、第2外国語としてフランス語を履修した時に丁度流行っていたジュリエット・グレコの優雅な発音に魅了された事と、将来フランスに留学して国際法などを学んで見たいと言う考えがあったからである。
そして大学4年の時、開催された東京オリンピックではフランス語の学生通訳として働くことができ、終了後にエルサルバドル駐日大使の好意で中米諸国へ招待された事の話は、2020年初めの「杉並三田会報」に掲載させて頂いた。
ただ中米旅行の最後に着いたカリフォルニアでは、見事な高速道路が網の目のように交差するインターチェンジ、巨大な米海軍基地、レストランでは巨大なビフテキを食べてカルチャーショックを受けたのである。その結果、フランスで法律を勉強するよりも、米国で国際政治学を勉強しなければと人生航路の行き先を90度変えてしまった。
結局、米国のウイスコンシン大学院に入った訳だが、たまたま受講していた総合的な科目で知り会いになった米国人学生がいた。彼は歯学部4年生で5年生への昇格試験を控えていたが、苦手な第2外国語のフランス語を特訓した結果、無事に5年生になれた。
さらに、彼は受けている授業の中で、大講義室で行う面白い科目があるからと誘ってくれたので、こっそり参加させて頂いた。牛乳が嫌いで今でも飲めない私は、カルシウム不足を魚で補っていたが、米国の中西部ではナマズの白身以外、海産物は何もなかった。そういう歯への恐怖もあって、歯学部の授業には時々出て聴講というよりも盗聴をしていた。当時米国の歯学部では大講義室での授業など極めてチェックは緩かったので聴講が可能であった。
そして、1970年代の終わりに日本へ帰国した私は小さな大学に就職できたが、担当科目の始めは英語であった。そのため、「時事英語学会」の会員となっていたが、ある時、時事英語学会で歯科医師と患者との会話に関する用語などを発表した。すると、たまたま会場に、ドイツでは「医歯薬」関係の出版社としては最大の会社「クインテッセンス社」の担当者が聴いていて、発表後、歯学関係の本を出版しないかとの誘いを受けた。
そこで出来たのが『歯科医院の英会話に強くなる本』である。この本は1983年に1600円で発売されたが、37年経過した現在でも未だ絶版になっておらず依然として販売されているのである。利用者は歯科医と海外へ長期赴任するビジネスマンとの事である。
本の内容は、受付と患者、歯科衛生士と患者、歯科医と患者で、歯科医との会話は「歯内療法、歯周療法、単冠(全鋳造冠)、インレー、陶歯、ブリッジ、総義歯、部分床義歯、小児矯正、矯正」などである。歯科医院が患者と行う会話を英語と日本語の対訳で取り上げている。但し、2000年位から歯科治療に加わった「インプラント」技術は入っていない。
以上、振り返って見ると、フランス語で飯を食うところまでは行かなかったけれども、フランス語が私の人生の1端を担ってくれた事に感慨深い思いを抱いている。
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