屋久島、今は世界自然遺産になり名の知れた島になった。しかし半世紀前の私が在学3年の頃は、まったく無名であった。その頃の話である。
工場見学旅行が宮崎の旭化成工場で終了し、見学ツアーは散会。後は自由行動になったので、当時まだ日本の秘境と言われていた屋久島まで足を伸ばすことにした。
3月17日 今でこそ高速艇で2時間だが、当時の定期船は朝8時に鹿児島港を出て5時間かけて宮之浦港に着く船便しかなかった。その日は低気圧通過直後であり、海はうねりが高く、僅か1000トンの船は外洋に出ると、右へ左へ、上へ下へと大揺れ。乗客の大半はグロッキー。我々も外に出たが海風は寒く、止む無く毛布を抱えてデッキに立った。この日は安房に泊まる。
3月18日 午前中は尾ノ間のパイナップル園を訪れ、パイナップルを食べる。この後、宿泊地である宮之浦に先に行く福山君と別れ、屋久杉を見たい4人(井上、石川、筒井、私)は、山の中に入った。時刻は午後12時。かなり遅い出発時間ではあったが・・・。
渓谷沿いの道は見晴らしは良く、安房川の深い青色は非常に素晴らしい。巨大な杉の木、数多くの滝があり、変化があって気分は爽快。しかし長時間の森林鉄道の軌道歩きは辛い。先を歩いていた石川君、井上君と離れてしまった。
小菅谷荘に着いたが、二人の姿が見えない。散策に出かけたとの事。彼等を待つこと1時間。3月中旬の日没は早く、あたりは薄暗くなり、気温も下がってきた。山荘の人からは、『早く下山しなさい!』と言われ、先に下山することにした。山荘出発16時30分。
途中の辻峠で完全に日が暮れる。ミゾレが降り出し寒くなる。17時半頃、やっと石川君、井上君が追いつき少しホッとする。明かりは私の小さな懐中電灯ただ一つ。3本杉に到着18時30分。杉は夕闇にぼんやりと見えるだけ。皆の口数が少なくなる。途中二股の分岐に出る。聞く人も道標も無い。どちらに行くべきか迷った。薄明かりの中、小枝が道を塞ぐように置いてあるのを見つける。“行くな”の印と判断し、もう一つの道を下山。それからも黙々と下山を続け、やっと麓の楠川に到着。時刻は実に20時であった。もはや宮之浦まで歩く気力はない。
少し先にポツンと一軒の民家を見つけ、電話を借りタクシーを呼んだ。車が来るまでの間、民家で飲ませて頂いたお茶の美味しかった事。実にありがたかった。
宿にいた福山君には大変な心配をかけてしまった。我々の顔を見てホッと安堵の表情を見せて一言、「だから山にいくのは止そうぜと言っただろう!」。
反省点の多い屋久杉見物であった。
あれから50年、若者の体力・エネルギーを感じる旅行だった。
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