1950年(昭和25)夏、やっと疎開先から東京に戻った。しかし、千葉は九十九里浜の漁村出身の田舎者にはカルチャーショックが大きかった。
その一つが軽音楽である。午後5時45分、NHKの第1放送をつけると『バンドタイム』が流れる。ジャズ、ラテン、カントリー、ハワイアン……。これらの軽音楽は新鮮で刺激的であった。中でもハワイアンは、素朴で明るく、潮の香漂う、九十九里浜の雰囲気にちょうど合う音楽であり、ただちに虜になった。
1954年(昭和29)大学に入った夏の合宿で、先輩からウクレレを教わった。だが3年になるとゼミ活動が忙しく、社会人になると仕事を覚えなければならない。当分ハワイアンは、「聴き手」に回った。ラジオでは、進駐軍向けのFEN放送(Far
East Network)の『Memories of HAWAII』(「Webley Edwards とHawaii Calls」の演奏)を聴き、銀座のライヴハウス、旧「タクト」にも通った。
結果として、レコード・テープ・CDが溜まった。曲目順に目録も作った。ライナー・ノートのエッセンスを収録するつもりだったが、1500曲を超えるとなると、とても手が回らない。じつは当時権威者であった早津敏彦氏に弟子入りをし、解説者の一端に加わろうと願った。だが、早津氏の不慮の死でそれは潰えた。
1981年、名古屋に単身赴任する折、無聊の慰みにと、ウクレレ1丁を携えた。兄弟会社の安田生命の星氏との出会いでこれが役立つ。単身赴任寮の一室に数名が集まり合奏を行った。東京勤務となったある日、星氏から「昔学生バンドをやっていた連中が、再結成するが加わらないか」と誘いがあった。野口氏(塾昭和35年経)率いる「マプアナ・アイランダース」に参加し、演奏活動に入った。
数年後、平川洌(きよし)氏の主宰するIUC(International Ukulele Club ウクレレ・ソロの教室)に誘われ、入門。しかし、ソロ演奏を習得する傍ら、ウクレレをリード楽器としたグループを組成したいと念願し、ウクレレトリオ「サンセット・クルーザーズ」を立ち上げた。現在は、ギターとベースが加わり五重奏団である。
やや戻るが2012年、最後のご奉仕と心得、「杉並三田会ウクレレサウンズ」を発足させた。現在、和田洋子氏(46年文)が3代目の世話人として、引率してくれている。
最近指の硬化で、活動を停止した。ビジネス生活の傍ら、凋落の途にある「ハワイアン」と共に70年(現在87歳)を歩んで来たわけだ。宿命を感じている。
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