三田祭の思いで
-MECIAのことなど- |
平島 碩(S41 工) |
旧小金井キャンパス 正門 |
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MECIA? 5学科時代の工学部の愛称として、懐 かしく思い出される方も居られるかも知れません。機械(M)、電気(E)、応化(C)、計測(I)、管理(A)の頭文字(応化のみ化学のC)を並べたものです。
当時の工学部、学部2年に進級して小金井校舎の門を入ると、満開の桜(写真)、その右に各学科の掲示板が「MECIA」の順に並んでおりました。
それで、自然発生的にこの愛称が生まれた? 多くの方がそう思っておられるようですが、実は仕掛け人が居りました。 |
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右図を御覧下さい。1964年三田祭の工学部パンフレットの表紙です(記憶をたどって作画したので細部は違っているかもしれません)。MECIAの文字が目立ちますね。このデザインは評判が良く(?)、以後数年、似たデザインが使われたようです。会場で数千部配布されたこのパンフのおかげでMECIAの愛称が広く認知されました。
後に、数理工学科(現数理科学科S)が加わった際、当時の学部長がどこかで「工学部が発展してMECIAがMECIASになりました。」と言う意味のことを言われたのを聞きました。そして、この表紙デザイナーは? 実はこれ、グラフィックデザイナー(?)としての僕の表紙第2作です。つまり、僕のデザインがこの愛称の生みの親と言う訳です(!?)。
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1964年工学部パンフレット
の表紙 |
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1964年、東京オリンピックの年、高度成長が始まったところ、大学進学率はようやく10%になるかと言う頃、大学生には天国の時代(大学生は飲酒も自由、就職の心配も今程ではありませんでした)。コンピューターの黎明期で、管理工学科の連中が三田祭会場に小型コンピューターを持ち込んで開店したバイオリズム恋占いに長蛇の列が出来ました。僕も学部3年生、クラブと工学部の三田祭準備の為駆け回って居りました。10月、11月は出席をとらない授業はすべてキャンセル、実験レポートは2ヶ月分まとめて冬休み直前提出、今なら遅刻減点などで留年必至。それでも何とか進級して、卒業研究が始まったら、先生に「君の顔は授業では見たことがありませんね」と言われる始末、長閑な時代でした。
年寄りの思い出話で貴重なホームページを汚してしまいましたが、自慢話は老人の特権! 学生時代のサークルなどの「伝説」は「実は自分が作った」など、自慢話に花を咲かせましょう! |