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私説 南河内風土記
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近江岸 敏明 (S49 商)
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作家 今東光の小説に「河内風土記」がありますが、この毒舌和尚は一時期、南河内の寺の住職を勤め同地にどっぷり浸かる時期があり「河内風土記」や「悪名」をしたためました、これ等は 勝新太郎 田宮二郎の映画の世界で一世を風靡しました。
私は昭和27年にこの南河内(藤井寺市)に生まれ幾星霜、この地にどっぷり浸かって、和尚の様な文才は有りませんがオマージュを捧げ、つれづれ思うままの南河内を綴って行きたいと思います。
1.古墳(御陵さん)
先年「百舌鳥(もず)古市(ふるいち)古墳群」として世界遺産に登録されましたが、子供の頃から遊び荒らしていた身ではピンと来ないのが実感です、近所の仲哀天皇陵など今では宮内庁の墓守が番所を設け綺麗に維持されていますが、古老は戦争末期、食糧難の時は人々が古墳の中に畑を作るのが当たり前だったと語っていました、水域に囲まれた中の島は密林で悪童でも入るのは怖かったです、今や世界遺産になったとは云えそれを当てにした商業施設は何処にも無く何にも儲けにはなっていないようです。あたりまえや!
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仲哀天皇御陵 宮内庁管轄 |
後方より見た御陵 |
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2.玉手山遊園地
幼稚園の遠足は近鉄南大阪線道明寺駅から石川を渡り対岸にある玉手山遊園に行くのが定番でした、ほのぼのとした遊園地でしたが、いまにして見れば大変な歴史の舞台で、古来より大和方面から大阪平野に侵入する経路にあたります、古くは壬申の乱、新しくは大阪夏の陣の激戦地となりました、徳川家康は軍を二手に分け京より秀忠、大和より家康が大阪に侵攻しました、まさに大阪への侵入口が玉手山を擁する道明寺で大阪方の猛将後藤又兵衛が激戦のうえ討死にしました、狭い街道を上から制圧する絶好の要害の地で今でも記念碑が残っています、因みに真田幸村は又兵衛援護で大阪城天王寺表より進撃するも霧に巻かれ合流出来ず、家康の首を取る絶好のチャンスを逸したそうです。
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玉手山遊園地の野外劇場 |
大阪夏の陣 後藤又兵衛 激戦の碑 |
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3.石川(大和川)
かって日本一汚い川として話題になっていた大和川でしたが、近年は汚名挽回、清流に戻っています。
先に述べた石川は大阪南部の和泉山脈に発し北上して道明寺の北の柏原で、奈良より発する大和川と合流しています、子供の時は此処でよく泳いでいました、かって大和川は北上して淀川に注いでいましたが氾濫が多く、農民を悩ませていました、これを改良すべく江戸後期に、官民挙げての大工事の末、柏原で堺に向かって西に折り曲げています、以来河内地方は不毛の湿地帯から米や木綿の好農地に変わり今日に続く繁栄の基礎を固めました。
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石川、大和川合流地点、手前上流側が
大和、上方下流側が堺 |
かっては合流後まさにこの地点より、
右側淀川方面に北上していた |
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