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杉並の風

終戦を日吉で迎えました
中山 勉(S26工)
昭和20年8月15日、私達は学徒動員先の消防署より日吉の大学予科校舎に赴き、そこで連合艦隊司令部と共に天皇の終戦詔勅をラジオで聴くことになりました。
当時、私は藤原工大が慶應に移管された後の最初の入学者であり、その直前までは旧制中学の4年生で三鷹の横河電機に勤労動員されており、そこから慶應に進学したものでした。
その時の入学試験は戦時下のこととて、どこの学校でも書類選考と簡単なペーパーテストで決定され、現在の推薦入学に近いものだったと思います。
 
藤原工業大学予科校舎(日吉)
日吉にあった藤原工大の校舎は戦災により焼失し、私達は現在の高校校舎の前にある医学部予科の校舎で授業を受ける事となりました。日吉での授業は1ヶ月ほどでしたが、この間航空機による爆撃や機銃掃射の音を聞きながら授業を受けた厳しい思い出が有ります。その後に都心の消防署に動員され、訓練を受けていた訳です。動員中には広島、長崎への原爆投下が有り、さらにソ連の参戦がこれに続いて、日本はもう駄目ではないかと感じざるを得ませんでした。

8月15日には、正午に重大放送があるとの事で、日吉の校舎前に集合してみると海軍の軍人が軍刀をもって多数現れ、一緒に整列したのには驚かされました。私達は連合艦隊司令部が日吉にあったことをその時まで知らなかったのです。
慶應義塾大学予科登戸仮校舎
正午に天皇のラジオ放送が始まり、戦争が終わったことを知りました。初めて聞いた天皇の肉声はその抑揚に特徴が有り、耳慣れぬため初めは内容がよく理解できませんでしたが、戦争が終わったらしいことは分りました。その後一部の学生が宮城の広場に赴きお詫びをしたという話を後日聞きました。
 
その日から当然ながら動員は解除され、本来ならばすぐに学校に復帰できるはずでしたが、日吉の校舎が米軍に接収されたため、行き場を失い、自宅待機を余儀なくされました。
その年の末近く、小田急線稲田登戸にあった元陸軍第9技術研究所が工学部、医学部の予科校舎となり、2年有余を過ごす事となりました。
予科終了後、学部に進んだ私達は溝口、志木、小金井と転々と校舎を変わり、この間に日吉が米軍から返還されたにも関わらず、ついに日吉に戻ることはありませんでした。
小金井校舎・正門





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