東京交通の移り変わりと通学通勤の思い出
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吉武秀夫(S19経)
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大正12年 日本橋方面(googleより) |
先日 江戸博物館で「東京の交通100年博」を見て回顧の念から70年に亘った私の通学・通勤の思い出を記してみようと筆をとりました。
( )内 は現名称 私の記憶の始まりは1923年9月1日関東大震災の焼跡の惨状と被災を免れて立ち往生していた市電車両を見たこと、次に電車復旧遅れをカバーする為に輸入されたフォード製の「円太郎バス」に乗った事です。
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◎通学
28年小石川(文京区)から当時郊外だった杉並町阿佐ヶ谷に移転したので小学3年生から電車通学を始めました.省線(JR)中央線・阿佐ヶ谷→新宿→山手線・大塚→市電・窪町と小1時間の通学でした。帰校時 昼間の車内はガラガラだったのでつり革で体操をしたり、ゴムボールのキャッチボールをしたりしました。電車は木製の4両編成で、鋼鉄の一編成が走り出したので長いこと待って乗りました。又 時には大塚駅からその頃はやりだした円タクに5人30銭で乗り登校したりしました。王子電車(荒川線)で飛鳥山遠足、武蔵野線(西武池袋線)で豊島園遠足・中村橋の農園行き,京成で谷津に潮干狩りに、小田急で江ノ島・箱根に行ったりしました。中学で今では想像外の「玉川マラソン」で澁谷から玉川電車線(東急田園都市地下線)沿いに国道246を二子玉川迄走りました。
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省 線 (JR)(googoleより) |
昭和36年 阿佐ヶ谷駅 朝ラッシュ時
(すぎなみ学倶楽部より) |
42年周辺私鉄が都の管理に入った際 西武荻窪線阿佐ヶ谷→新宿→四谷塩町(3丁目)→六本木→三田を都電1枚の切符で通学を試みた記憶があります。
震災後の郊外発展と共に鉄道の建設が進み杉並では中央線を中心に電車は吉祥寺、立川、淺川(高尾)に延び33年には急行(快速)が走り出し、27年西武新宿線、33年帝都線(京王井の頭線)が開通便利になりました。
新宿は省線、私鉄、市電が集まりデパートはじめ商業が集積し西郊の中心として賑やかさを増しまし、澁谷には浅草→銀座から地下鉄が延びて来て一番高いところに駅が出来その下に省線、市電が通ると言う現存の珍風景が出現、西口の道玄坂が中心の盛り場、尚 池袋は市電も通じず駅周辺何も無いので「駅袋」と言う人も居ました。 |
◎戦後・通勤
勤務先の関係で中央線で阿佐ヶ谷→東京の通勤を始めました。首都一極集中・都心空洞化で電車は殺人的ラッシュ、押し屋に押されてやっと乗り、身動きができず息苦しくなったり、ドアがはずれ人が落ちたり,、上司が網棚に載せた鞄から押されて遠くなり見えているのに持ち逃げされたりした通勤地獄でした。戦後の復興が進み、モータリゼーションの影響、地下鉄の整備で60年代から都内に張り巡れていた都電網は順次撤去され今では荒川腺を残すだけとなりました。当時周辺にあった社宅在住の人が通勤が早く便利になったと言って居たのを思い出します。
最近では地下鉄網が充実し、JR、私鉄各線の相互乗り入れが進み、便利になった一方 事故発生時の影響が広範囲に及ぶ様になったこと、西郊の南北大量輸送機関の未整備の解決、特に震災時帰宅不能者の大量発生対策など大きな課題がある事を記して筆をおきます。
終 |