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インド独立運動の英雄ボース氏の遺骨
 
 

黒田 直隆 (S40 経)   
 
   4年前の正月、杉並区堀之内にある妙法寺の初詣のついでに、近くの小さな寺「蓮光寺」に足をのばした。スバス・チャンドラ・ボースの遺骨を供養し、胸像が建立されていると新聞に紹介されていたからだ。
その時、8月18日の命日に慰霊祭があることを知っ
たので参加してみた。同氏ゆかりの人々で組織した「S・C・ボース・アカデミー」の主催だった。壁面の飾り棚に、同氏51回目の誕生日に寄せられたガンジーの哀悼の辞、来日の際ネール首相が蓮光寺にお参りに来た時の写真が飾ってあった。
 
 平成20年正月 
       蓮光寺のボース氏胸像と筆者
   
 
 同氏は大戦中に日本の支援を得て、11回の投獄、7回の断食を乗り越え、生涯独身を通し英国からの独立に身を捧げた英雄である。独立実現の方法が違ったため、袂を分かったが、ネールの盟友であった。昭和18年東京で開催された東条首相主唱の大東亜会議に自由インド仮政府首班として出席した人物だ。
 
                                    昭和18年11月 
                                 大東亜会議参加の各国代表 右端がボース氏
                                   出典:昭和三十年毎日新聞社編
                                           「写真昭和30年史」
 私が同氏に興味をもった理由は、亡父の尊敬する人物だったからだ。私が生れた2ヶ月後、38歳で特派員として赴任したバンコックで出会ったのだ。同氏は昭和18年連合国の厳しい海上封鎖をくぐり抜け、ドイツから極東にたどり着いた。Uボートから伊号にインド洋で乗り換え80日を超える潜水艦での長旅だった。この勇気ある潜航については、吉村昭の小説「深海の使者」に詳述されている。
    父は生前多くを語らなかったが、遺品の中から同氏に関する随筆が見つかった。 
抜粋すると
東京本社に「至急、後任支局長を探して欲しい。ボースがニューデリーに進軍する時に同行したい。インド独立のために絶対必要な人物だ。その弾丸よけとして働きたい」と、電報を打った。長い間待った末、「君の歳では熱帯ジャングル生活は無理だ。諦めろ」という回答だった。断念せざるをえなかった。― 
  昭和18年
    亡父(左側)とボース氏 於:バンコック

 私は始めて真実を知り驚いた。昭和19年、同氏はインド国民軍を率いてインパール作戦に参戦し惨敗したのだ。同行していれば、弾丸よけの父は戦死した可能性が高い。父が詳しい話をしなかった謎が解けた。うしろめたかったのだ。最悪の場合、当時34歳の母と幼い子供3人を路頭に迷わせた無責任な行動だ。               とはいえ、私自身各種歴史書や本人と接した方々の回想録等を読むうちに、同氏の情熱と人格に魅了されるようになった。そして父に共感する気持さえ芽生えたことが、蓮光寺訪問につながったといえる。
 なお同氏は終戦のわずか3日後、台北空港離陸直後に機体トラブルのため墜落し48歳で亡くなった。同乗の副官が遺骨を東京に運び、色々な経緯から蓮光寺が預かることになったという。

 命日の慰霊祭後の食事会で、あるアカデミー会員が私に語った。
「遺骨を祖国に帰すべくインド政府に訴え続け、一時実現する寸前までいったが未だに実現できていない。インド国民が平和主義ガンジーと武闘主義ボースとに崇拝者が二分しているため、遺骨が戻ると政治が混乱するからであろう。もうインドへ帰れないかもしれない。誠に不憫でならない…」
 また、別の会員が語った。
「会員の大部分が死去したり高齢化しているため、毎年実施してきた命日の慰霊祭も早晩打ち切ることになるだろう」
 このように、時の経過が過去の重い事実さえ風化させていくのだろうか?




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