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歴史の宝庫 下関の旅行記
 
 

束原 秀一 (S44 法)   
 
 学生時代生粋の国粋主義者であった私が何の因果か会社生活43年の約20年を海外(オランダ、シンガポール、オーストラリア)で働くことになりました。お蔭でグローバリゼーションの環境の中で様々な地域の文化、習慣、生活形態、を学び大きな財産となったが反面日本の美しい文化、四季、自然に触れることの機会が少なくなり会社引退後日本国内を積極的に旅をしています。最近日本の歴史の分岐点で大きな役割を果たしてきた(公家社会→武家社会、明治維新、日清戦争講和条約)下関を訪問。小さな町ですが歴史の宝庫の下関の旅行記を以下に綴ります。
 1)功山寺。時は元治元年(1864年)12月15日。高杉晋作は長府の功山寺にてのちに回天義挙と呼ばれる決起の雄叫びを挙げる。功山寺に潜住する三条実美等の五卿に:これから長州男児の肝っ玉をお見せもうす:と境内に集まった奇兵隊や伊藤博文の数十名の兵士に対し宣言し萩の守旧派にクーデターを起こしたのである。島津久光の裏切りにより西郷隆盛が挫折しかかり薩摩の尊王攘夷が消えかけていたが彼の踏ん張りにより1867年の大政奉還に向けての回天が行われたのである。29歳の短い命。吉田松陰に可愛がられた久坂玄瑞や木戸孝允あるいは伊藤博文日本の英雄とされる竜馬に比べてなんと哀しく潔い一生であったことか。  


功山寺の高杉晋作の像
     
 安徳天皇の祀られている赤間神社 

  2)関門海峡の一番狭いところが壇ノ浦。すぐ傍に安徳天皇を祭る竜宮城の形をした赤間神社が在る。元歴2年3月(1185年)壇ノ浦の戦いで平家は滅びる。清盛の娘後の建礼門院を母とし高倉天皇を父に持った安徳天皇は7歳で清盛の妻二位の尼に抱きかかえられて入水する。何処に行くのか聞き竜宮城に行くのだと教えられ海の底へ沈んだ。建礼門院は救助され死にきれず京都の大原寂光院で平家一族の戒功を弔う日々を送りある時後白河法皇が訪ねてきて身の上話をするところで平家物語の幕となる。いわゆる大原御行である。 
 3)下関砲台と春帆楼。1863年5月の攘夷決行により、アメリカ、フランス、オランダ、の商船が長州藩に爆撃され英国領事のオールコックが日本人に痛い目を見せる必要があるとして、躊躇する3国の尻を押して4か国連合艦隊17隻(内9隻が英国艦隊)が関門海峡を通過。前田砲台と壇ノ浦砲台を爆破。上陸の後20台の大砲を押収。戦力で歯が立たない日本は開国に向けて舵を切ることになる。すぐ近くに料亭の春帆楼がある。日清戦争の敗北によって清国の李鴻章が百名を超す部下を連れてきた。
彼は清国政府のダラシナサで負けたと愚痴ったそうな。迎えた伊藤博文、陸奥宗光の意気軒昂たるや想像に難くない。交渉を進めたテーブルが保存されていた。下関砲撃と日清講和条約締結間の30年は日本の歩みの輝かしい時期であったと思われる。一方この間の日本のパトロンとなった英国のアーネストサトウ、グラバー、伊藤博文、岩崎弥太郎の連係プレーも忘れることはできない。日本銀行の第一号支店は下関に出来清国からの賠償金を受け取る役目を果たしたとのこと。 
 すぐ近くに門司駅がありネオルネサンスのデザインで日本でただ一つの重要無形文化財の駅だそうな。
   

下関砲台と春帆楼


 日清戦争講和条約会議
瀬戸内海の紀行文はまだまだ続きますが紙面の限りもありますのでこれで終了しますが歴史の節々で大きな役割を果たしてきた下関を皆さんも一度訪問されては如何でしょうか。



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