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杉並の風
      
阿佐ヶ谷・荻窪界隈
 
松井 滋 (S46 法)
わが家が阿佐ヶ谷二丁目(現阿佐谷南三丁目)へ越してきたのは昭和二年。祖父が逓信省勤務の頃らしい。当時は役人・教員など共に文士(あるいは文学青年窶れ(やつれ))と呼ばれる方々もこの近辺に居を構え始めたようである。拙宅から二つ目の路地には青柳瑞穂旧宅がある。小学校低学年のころ父(14年法)からあの方が「丘の上」の作詞者だよと教わったが、羽織姿で近所を散策されていたことが記憶に残る。次の路地には私小説作家として名を馳せた外村繁宅があった。「阿佐ヶ谷日記」はご夫妻の闘病生活のこと、家族のこと、自然のことなど亡くなる直前まで書きつづけられた手記でほのぼのと心に沁みる遺稿である(昭和36年没)。 
さて、阿佐ヶ谷駅を挟んで北口荻窪寄りには、外村と同年齢でやはり私小説作家として名高い上林曉(かんばやし あかつき)旧宅がある。私が高校生であった昭和40年頃、新潮日本文学全集(瀧井孝作・尾崎一雄と三人で一冊)を読み天沼の上林邸まで出かけて行った記憶がある。既に二度目の脳出血で寝たきり生活となっていた後のことであるが、その後も上林は、原稿の清書や口述筆記など妹さんの助けを借り執筆活動を続けられていた。   
       上林 曉旧宅(天沼一丁目)  
   
  日大通りに出て環八方面に向かって歩を進めると太宰治が昭和11年から半年余り住んでいたという碧雲荘が往時の面影を残している。井伏鱒二の「荻窪風土記」によれば太宰は『大学はいりたての頃(昭和5年)私のところに手紙をよこし、返事をうっちゃっておくと二度目か三度目かの手紙に、会ってくれなければ死んでやると言って来た。私は気になるので(中略)会うことにした』とあり、その後も懲りることなく原稿を置いて行ったようだ。更に14年には井伏邸で井伏夫妻の媒酌により結婚式を挙げている。 
太宰 治が一時住んだ碧雲荘
(天沼三丁目) 
 
 
  日大通りを進み右折すると井伏鱒二旧宅だ。三田文学にも当時の主宰者水上瀧太郎の推奨により昭和三年に「鯉」が掲載されている。
井伏は昭和二年、三十歳の時この地に居を構えるのだが、新居建築資金捻出のため実家の兄からの送金と、知人の親に大工を仲介してもらうなどして、順調に計画は推移するかにみえたが、その後悪意に満ちた仲介人と金欠の大工の罠に陥り建築が頓挫してしまう。ここから悪戦苦闘が始まり話は佳境に入るが長くなるので詳細は風土記本文に譲りたい。
 
杉並区保存生け垣も美しい井伏 鱒二旧宅
(清水一丁目) 
井伏邸を後にすると四面道までは目睫の間(もくしょうのかん)。私は読書会にお世話になっていますが例会会場の石橋亭にたどり着いたところでこの散策のお開きとしたい。
 



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