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杉並の風
      
日本語教育の現場から
 
天野 久仁子 (H09環情)
 
杉並三田会に入会する前の2年間、私はイギリスで日本語を教えていた。最も長く勤務したのは、ロンドンの銀座ともいうべきOxford Circusから少し奥まったところにある、小さな語学学校だった。ここで、私は初級3クラスを担当していた。どのクラスの生徒も、日本そして日本語が大好きで、様々な目的のために学習を続ける熱心な生徒達だった。彼らがいたからこそ、私は日本語教師として成長できたといっても過言ではない。   
最初に教えた初級クラスの生徒たち
よく「日本人だから日本語を教えられる」と言う人がいるが、これは大きな間違いである。それは、日本語クラスの教壇に立ってみれば、30分と経たないうちにわかるだろう。初級クラスといえども、生徒の質問はなかなか手厳しい。未知の言語を学ぶ初めの一歩なのだから、疑問が多くて当然なのだが、中には日本語ネイティブだからこそ気づいていないことを突いてくる鋭い質問もあったりする。 
 
 生徒の質問対策として読み込んだ文法辞典
例えば、まだこの学校で教え始めて間もない頃、こんなことがあった。確か初級の2回目の授業だったと思う。0~9の数字を導入した後、教科書の流れに沿って「電話番号を聞く/教える」という会話の練習に移り、「私の電話番号は、03-6124-5789です。」という文を模範音読した途端、きょとんとした顔にいくつも出会った。「AはBです。」という文型も、「AのB」という所有の表現も、0~9の数字の読み方も、更には「電話番号を読む時は、『-(ハイフン)』を『の』と読む」ことも導入済みなのに、一体どこに躓いているのだろうと首を傾げていると、生徒の1人から英語でこんな質問を受けた。 
「先生、『2』と『5』は『に』『ご』と習いましたが、本当は『にー』『ごー』なんですね?」
一瞬、何を言われているかわからず、もう一度小さな声で電話番号を唱えてみて、ハッと気づいた。皆様はお気づきだろうか。日本人は、電話番号を読み上げるとき、1拍で構成されている数字の2と5の音を、自然と「にぃ」「ごぉ」と長音化して2拍に変え、2拍で構成されているその他の数字の音と合わせて読んでもリズムに違和感が生まれないようにしているのである。これは、新米教師にとって、まさに「言われてみればそうだわ…」という指摘であった。そして、自分の勉強不足に落胆するとともに、日本語ネイティブの無意識な「音の操作」に気づいてしまう生徒の鋭さに、心底脱帽した。

さて、こんな鋭い生徒達に鍛えられながら月日は流れ、ビザの関係でいよいよ帰国の日が近づいた頃、日本では東日本大震災が起こり、イギリスでもほぼ全てのメディアが日本に関する報道で埋め尽くされた。その間、生徒達もいつも以上の数の日本語を耳にし、目にしたのだろう、その数日後に行われた私の最後の授業で、1人の生徒が突然こんなことを尋ねてきた。
「先生、『日本』は、どんな時に『にほん』で、どんな時に『にっぽん』と読みますか?」
咄嗟のことで答えに窮し、「日本」を含むフレーズを思いつく限り口の中で唱えながら、必死で「日本語ネイティブの暗黙のルール」を見出そうとしていると、別の生徒が私に代わって答えてくれた。日本でも話題となった3月13日付の「インディペンデント」紙をいつの間にか鞄から取り出して、その一面をクラスの皆に指し示しながら。 
「今みたいな時は『にっぽん』って読むべき時だと思う。だって、『っ』が入っていたほうが、パワーを生み出すリズムになるから!」そして、クラス全員が納得したように頷いていた。
日本語に対する、生徒からの最後の鋭い質問は、思いがけず、私の心に温かいものを運んでくれた。それは、私の限られた授業時間を通して、「文法」や「発音」などの「語学ルール」を超えた「適切なことばの選び方」に、生徒達が気づき始めていたことに対する深い喜びでもあった。(了)
 
 
  3月13日付けインディペンデント紙




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