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杉並の風

      
わが家の宝物と心のふるさと   

                                               小泉 成利(S31経)   
   
僕の生まれ育った処は東京の下町、東京府東京市日本橋区通二丁目、現在の東京都中央区日本橋二丁目である。
古地図(文久三年<1863年>版、明治になる4年前の作)、日本橋南之絵図によれば式部小路と言う横丁である。
 式部小路は江戸時代、幕府の奥医師、久志本式部が住んでいたころから式部小路と名づけられた。
明治になってその場所が区画され、時を経てその一区画に我が家が移り住む。
いつ頃から使われ始めたのか不明だが祖父竹太郎、父市太郎に引き継がれた「あかのやかん」を我が家の宝物として保存している。 銅(あかがね)製で赤銅色が黒光りしたやかん、直径23㎝、高さ20㎝、胴体周り72㎝で一升ビン(1800mℓ)3杯半は裕に入る台所用具だが、関東大震災(大正12年<1923年>9月1日)の時に水を入れ持ち運び日本橋から宮城近くの広場に避難し運よく家族を救ってくれた。
昭和20年(1945年)3月10日太平洋戦争で米軍機B29来襲による焼夷弾爆撃の東京大空襲の時にも家族を危機から救ってくれた。空襲で家は全焼したが家族全員避難出来た。再び「あかのやかん」は活躍した。僕が小学6年の時だ。卒業式もなく小学校を卒業した。
震災と空襲の二度にわたる我が家の重大な出来事に立会い苦難を乗り越えて大役を果た し、命をつないでくれた「あかのやかん」を宝物として今も大切にしている。
  空襲で日本橋から焼け出されて今日まで杉並区の住人になるのだが、昭和7年生まれの僕が小学6年迄住んだ故郷、日本橋はどうであっただろうか。
 故郷が地方にある人には変わったとは言へ、それなりのふるさとの山、ふるさとの川或いは家並みと言うものがあるであろう。だが日本橋を故郷とする僕には視覚的に残るものはほとんどない。僅かに高島屋の建物位である。丸善のうしろ隣にあった母校、日本橋城東小学校(国民小学校)は今は跡形もない 
 当時は商家とサラリーマン家族が軒を接し融合していた。老舗をかまえる商人やご隠居さん、一定の豊かさを保った「しもたや」もあって安穏で経済的に安定していたのではなかろうか。近所づき合いも親しく融和し、狭い路地を通じて人情が行交っていた。
 隣の精進揚げを貰ったり家のボタモチをあげたりしていた。農漁村の困窮と言う犠牲の上に立ってのことだろうが今からみれば小僧さんや女中さんを各戸がかかえていた。
 因みにわが家では父が米穀商と澱粉製造を営んでいたので住居には6~7人の小僧さんとお手伝いさんが居た。僕は兄2人姉3人の末っ子の三文奴(さんもんやす)と兄、姉に言われた。いたずら好きな坊チャンである。
浦安あたりのしがない漁師であろうか呼べば軒下でアサリをむきみにして売り、母はよくこれを大根煮にしていた。肉料理の記憶はない。電話一本で医者は看護婦をつれて来た変わった時代である。
 あらゆる空き地と路地は遊び場になりメンコ、ベイゴマで夢中になった。雨の日には米俵の上で遊んだりして部屋の中は僕等仲間の遊びの創意工夫の塊であった。 紙芝居のドギツイ絵や怪しげな駄菓子。一生懸命に割りばしの水あめをこねた。馬糞の臭いがする昭和通りの中央帯には多くのバッタがいた。運河には金銀ヤンマの巨大トンボが水面を這い友達と並んでトリモチ竿で一斉に振った。竹馬の友との思い出は今も心に生きている。
大都会にこんなに自然があったとは誰が想像することができるだろうか。




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